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時の鐘-上野

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◆花の雲 鐘は上野か 浅草か

門人の榎本其角(後、宝井其角と改名)が編んだ『続虚栗集-甲』(貞享四卯の年=1687年=刊)に載っている、松尾芭蕉、44歳の時の句です。

花の雲は季語。「花」は「桜の花」。当時、上野や谷中が桜の名所でした。深川の芭蕉庵辺りから、見渡せたと言います。芭蕉が聞いた鐘の音はさて、上野なのか浅草なのか?
芭蕉庵からは上野も浅草も似たような距離なのです。どちらかわからないほうがいいのかも知れません。

かつて「忍岡」(しのぶがおか)と呼ばれていた上野の「時の鐘」は、現在、上野公園内にある「上野精養軒」と「韻松亭」の間にあります。

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◆上野の「時の鐘」データ
【場所】東京都台東区上野公園4番(JR上野駅公園口より徒歩5分)
【初鋳造】寛文6年(1666年)
【再鋳造】天明7年(1787年)谷中感応寺(現天王寺)の鐘を使用
【指定】環境庁平成8年(1996年)「日本の音百選」

通常、朝の6時、お昼12時、夕方6時の3回ですが、今も毎日、撞かれていて、平成8年(1996年)、環境省の「日本の音百選」に選ばれています。機会があれば皆さんにも聞いてみてください。
そのうち、録音して、このブログで「上野の時の鐘」の音を聞けるようにするかなぁ?

忍岡から上野へ名が変わったのは、この地に屋敷を構えた大名・藤堂高寅が、自分の領地・伊賀国上野に似ていることから「上野」と呼び、さらに、寛永寺が建立され、一帯が庶民に開放され、門前町として発展していったことで、上野の名称が定着したから、のようです。

芝の「時の鐘」で記したように、一般に、寺院の鐘は、念仏などの修行をする「六時」(ろくじ)を知らせるために撞かれました。ですから、寛永寺でも同様のはずです。なにしろ、現在、上野の時の鐘と、寛永寺の鐘とは別ものですから。

で、江戸切絵図の「東都下谷絵図」(尾張屋板=版。嘉永4年=1851年刊)で調べてみました。当時、寛永寺の根本中堂(天台宗では本堂をこう呼びます)は、現在の噴水広場辺りになるのですが、その根本中堂の前に文殊楼という、阿弥陀堂と釈迦堂を繋いで門のようになっている建物、文殊楼の西側脇に鐘撞堂がありました。この鐘が「寛永寺の鐘」かと思ったら、「将軍家霊廟の儀式用」の銅鐘だと「台東区教育委員会」の説明板。では、六時用の鐘はどこに行ったのか? 上野戦争でダメになったのか? 寛永寺の場合は,時の鐘で六時を計った? 疑問は残りますが、今のところはここまで。
ところで、時の鐘はどこにあったのか?

「東都下谷絵図」(尾張屋板=版)には、先の鐘撞堂の南西、不忍池近くに、もう1つ「鐘撞堂」が記されています。そばに「イナリ」と言う文字もあります。
近江屋板の切絵図の「上野下谷辺絵図」(嘉永6年=1853年刊)で調べたところ、「時鐘」と記されているものの、位置(場所)はあまりにも不忍池に近い。絵図からは、正確な場所を特定しづらいですね。ですから推測です。
尾張屋板にある「イナリ」は、現在の「花園稲荷神社」。もともとは忍岡稲荷、俗に穴稲荷とも呼ばれていた稲荷社です。古くから鎮座していたとされ、一説では、上野の山が整えられる際に、3代家光公の命で再建され、上野の山の守護神となったとか。幕末の上野戦争では、最後の激戦地となった場所でもあります。
明治6年に再興され、その際に花園稲荷と改称されました。稲荷社の敷地は明治になってから狭くなったわけで、いまの時の鐘は稲荷社から遠いようですが、以前はもっと近くにあったわけです。あるいは、稲荷社の敷地内だったのかも。ということで、鐘撞堂の場所は江戸時代から変わっていないのではないかと推測。そこに置かれていた時の鐘が、いまもそのまま時の鐘として使われているのでしょう。

上野公園周辺地図small.gif作家・岡本綺堂によると、上野の時の鐘には4人の鐘撞番がいて、2人ずつ昼夜交代で詰めていたそうです。一般に、鐘撞番の費用は、鐘の音が聞こえる町内に住む商家・町人たちから徴収する鐘撞料でまかなわれていましたが、上野の場合は、藤堂家、前田家、佐竹家などの大大名をはじめ、30あまりの大名屋敷があり、大名からはその石高に応じて徴収され、他の時の鐘より、集まる鐘撞料は多かった、とあります。

ちなみに、公園の開設後、明治8年に、本膳や会席のお店「韻松亭」が創業しており、上野精養軒は、フランス(西洋)料理の草分け、東京築地「精養軒ホテル」(明治5年創業)の支店として明治9年に開業しました(関東大震災で本店が焼失し、上野精養軒が本社本店機能を継承)。どちらも由緒があり、また、美味です。ちょっとお高いですが...。

http://www.innsyoutei.jp/main.html
http://www.seiyoken.co.jp/


◆江戸の鬼門を守る--上野「寛永寺」
天台宗の関東総本山。創建した南光坊天海(なんこうぼうてんかい。後、僧正となり、天海僧正と呼ばれます)は、天台宗の僧で、没後の諡は慈眼大師です。
天海僧正は、天正18年(1590年)に家康公と知り合います。生年がはっきりしていないので不確かですが、(数え年108歳で)大往生を遂げるまで、家康、秀頼、家光の三代にわたり、重用された人物です。
家康の死後、家光の命により、寛永 2年(1625年)、江戸幕府の安泰と万民の平安を祈願するためで、江戸城の鬼門(東北方位)にあたる上野に建立されました。
寺名は「寛永」の年号から。山号は、天台宗総本山「比叡山延暦寺」に倣い、東にある叡山という意味からで、京の都の鬼門(北東)を守るのが「比叡山(延暦寺)」、江戸の鬼門を守るのが「東の比叡山」すなわち「東叡山(寛永寺)」というです。

「鬼門」については、時の鐘の記事を終えて、新たに記すことにします。

◆庶民に開かれた、気軽な観光地
創建当時は江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、天海僧正は、上野を閉ざされた場所でなく、誰でも来て楽しめる場所にするよう強く働きかけ、実現しました。

●見立て

桜:吉野の桜を上野の山に植樹。東の「吉野」です。


不忍池:琵琶湖に見立てています。蓮(の花)の名所となりました。

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弁天島:琵琶湖の竹生島に見立てて、竹生島の宝巖寺の大弁財天を勧奨した弁天堂も建立されました。寛文年間(1661~1672年)に石橋が架けられ、歩いて行き来できるようになりましたが、最初のうちは、舟で渡る場所でした。

bentendoh.jpg清水観音堂:ご本尊は千手観音座像。京都清水寺から迎えられました。つまり、東の「清水寺」です。

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このように「見立て」を施し、京や大坂などに旅することが難しい庶民が気軽に寄れ、楽しめる場所を提供、結果、上野を仏教に親しめる地にしたのです。

江戸時代、上野の山全体が寛永寺の境内でした。最盛期の寛永寺は、本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)、子院(当時は36カ院)など、豪華な建造物を誇り、これらを総称して、寛永寺と言っていました。

上野の山を散策すると、江戸時代の庶民の楽しみを感じられる気がします。

幕末に活躍した浮世絵師、歌川広重が描いた「名所江戸百景」の1つに「上野清水堂の月の松」があります。明治期に台風で消失したものが150年ぶり(?)の再現されていて、面白い...かな?

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その後、寛永寺は、芝の増上寺とともに将軍家の菩提所になります。

◆(日光)東照宮
元和2年(1616年)、駿府城において危篤の家康公は、
「自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしい」
と、藤堂高虎と天海僧正に遺言します。
葬儀は天海僧正が導師となって執り行われ、家康公はいったん久能山に葬られ、その年のうちに(久能山)東照宮も完成しますが、翌元和3年、朝廷から東照大権現の神号を賜った家康公のために日光に東照宮が建てられ、家康公は日光の東照宮に改葬、奉祀されました。日光に東照宮があるのは、天海僧正の偉業の1つといっていいでしょう。
家康公の神号に関し、権現号を主張したのが天海、明神号を主張したのが金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。元和3年(1617年)、朝廷より徳川家康に東照大権現の神号が勅許されました。家康のブレーンとして活躍した、この2人の異色の僧のことを書くと長くなるので、割愛します。

◆上野東照宮
社伝によると、日光は遠く、また、江戸城内だと一般の武士が参拝できないという理由から、寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野忍ヶ岡の、自身の下屋敷内に建立したのが上野東照宮の始まりだとか。
後に家光公の命で現在の規模になります。現在の社殿(国指定重要文化財)は慶安4年(1651年)に徳川家光が改築したもの。平成25年(2013年)末までの予定で修復工事が行われていますが、修復が終わると、当時の美しさの社殿を見ることができるでしょう。

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◆上野戦争
慶応 4年(1868)5月 15日の上野戦争(官軍と彰義隊との戦争)により、寛永寺ではほとんどの伽藍(建物)が焼失します。そして、明治政府の命令で境内も大幅に縮小されました(約10分の1の約3万坪)。
現在の寛永寺の根本中堂は、本来あった場所(上野公園大噴水付近)からずいぶん北側に押しやられ、上野というよりは鶯谷駅の近くにあります。

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根本中堂もまた上野戦争で消失しており、現在の根本中堂の建物は、明治 12年に天海僧正ゆかりの川越(埼玉県)の喜多院から本地堂(薬師堂)を移築したものです。寛永寺の鐘はこの脇にあります。

Bonsho_Kaneiji01.gifなお、明治政府は、荒廃した上野に病院などの施設の建築を計画したのですが、それに異を唱えたのが、幕府から招かれ、医学を教えていたオランダ人の医師、ボードワン博士が、自然がつぶされるのを憂い、公園とするように提言、明治6年(1873年)、日本初の公園として「上野恩賜公園」が指定され、博物館や美術館も建てられ、上野は文化と芸術の地となりました。

それでも、上野戦争、もちろんその後の太平洋戦争による被害を蒙り、歴史ある建物や町並が残る奈良や京都、大阪などに比べ、江戸(東京)では多くが潰え去っているわけで、とても残念です。