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江戸「西久保八幡の時の鐘」

カテゴリー:建物の手帳 

江戸時代、時を知らせるため、官許の鐘撞堂が設置され、時刻毎に鐘を撞かれました。先に、江戸最初の時の鐘は「日本橋石町の時の鐘」と書きました。それが定説のようですが、もしかしたら間違いだった?

 

◆時の太鼓

 

江戸城内では当初は太鼓で時(昼夜十二刻)を知らせていました。登城をはじめ、職務の時間はすべてこの太鼓によって定めらていました。江戸城の見附の門は、明六つ(日の出)の太鼓が鳴ると開けられ、暮れ六つ(日の入り)の太鼓が鳴ると閉められました。

※江戸時代の時法については、後日、詳しく書くつもりです。

徳川幕府、二代・秀忠の時代(慶長10年/1605年~元和9年/1623年)、太鼓に代わり、西の丸の鐘で時を告げるようになります。西の丸の工事は慶長12年(1607)からなので、鐘はそれ以降です。
寛永3年(1626年、三代・家光の時代)、その鐘が石町に移されたと言い伝えられています。


移設された理由は、「将軍の御座所に近く、うるさい」ということらしいのですが、江戸城内の鐘だけでは、江戸府内全てで聞こえるはずがありませんから、外に出したと考えられます。また、石町の他にも、時を知らせる鐘を各地に置くことを許した(官許)わけです。そして、江戸城の時報は、鐘から太鼓に戻されました。

江戸の官許の時鐘は、新設・廃止・再興などもあり、同じ時に存在したのは、多い時で10~11くらい?

「石町の鐘」

「忍岡(上野)の鐘」

「浅草(浅草寺)の鐘」

「本所の鐘」

「市谷八幡(東円寺)の鐘」

「芝の鐘」

「目白の鐘」

「本所深川(永代寺)の鐘」

「赤坂田町の鐘」

「四谷天龍寺の鐘」

「目黒の鐘」

等々。

「石町の時の鐘」については先に記しました。

※小学館「江戸時代館」に書いているのですが、 『享保撰要類集』によると、時の鐘は以下の順(上野→市ヶ谷→赤坂田町→芝)に、前の捨て鐘を聞いて撞き始められたそうで、藤原緋紗子著の『藍染袴お匙帖』シリーズの文庫1冊目の四話『走り雨』にもその記述があります。
まず寛永寺が、時の鐘の捨て鐘(3回の捨て鐘)を打ち終わったところで、市谷八幡で捨て鐘を撞き始め、市谷八幡の捨て鐘が撞き終わったところで赤坂田町の成満寺...最後に芝増上寺内の、芝切り通しの鐘で終わる。まわりにある府内の鐘は、この一連の流れを受けて撞かれることになっている、ということです。

◆最初の時の鐘は「石町」でなく「西久保八幡」?

 

石町の時の鐘は、寛永3年(1626年)から始まりました。
ところが、調べてみたら、西久保八幡(港区虎ノ門5-10-14。東京メトロ日比谷線「神谷町」歩3分)の時の鐘は、元和5年(1619年)に建てられたそうです(元和元年=1615年という説もあります)。時鐘を建てたのは長谷川豊前という人のようです。石町よりも前ではないですか!?

 

西久保八幡

 

西久保八幡は、寛弘年間(1004年~1013年)、源頼信が、石清水八幡宮を勧請し、霞ヶ関の辺り(榎坂辺りという説もあります)に創建した神社で、江戸築城(長禄元年=1457年)に際し、現在の地に遷されています。明治の神仏分離までは東叡山の末寺「八幡山普門院」と称し、参詣者も多く、門前町はたいそう賑わったそうです。
この神社で、2代秀忠の正室であるお江の方が、関ヶ原の戦い(慶長5年=1600年)を前に戦勝祈願をし、その報償として、社殿建立の希望を遺しました。その後(寛永11年=1634年)、3代家光が遺志を継ぎ、社殿を造営したそうです。徳川家との縁もありましたから、時の鐘も早く造られた?

 

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寛文10年(1670年)、この鐘が割れてしまいます。

その後、再鋳造されなかったため、時刻がわからないということから、4代家綱の時代、ほど近い増上寺からの奏上という形を取り、増上寺の鐘(延宝元年=1673年)の余材を使い、延宝2年(1674年)新たに鐘が造られました。その鐘が置かれたのが、芝切通し(現在の、御成門~神谷町を抜ける道そばの円光寺辺り?)で、これが一般に言われる「芝の時の鐘」です。
歌舞伎「神明恵和合取組(かみのめぐみ わごうのとりくみ)」(通称「め組の喧嘩」)の「今なる鐘は切通しの七つ」の鐘がこれのことです。残念ながら鐘は残っていません。