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石町の鐘のそばにあった薬問屋「長崎屋」

カテゴリー:建物の手帳 

石町の鐘はオランダまで聞こえ

 かつて日本橋「石町の時の鐘」があったところの、道(鐘撞新道)を挟んだ南側に、幕府御用達で、唐人参(薬用人参)の江戸における独占販売権を持っていた薬種屋「長崎屋」がありました。
 現在の東京都中央区日本橋室町四丁目2番地にあたり、JR総武線「新日本橋駅」出入口4番から江戸通りに出たところです。そこには「東短ビル」があり、駅出入口の脇壁面に、
「江戸時代、ここは長崎屋という薬種店があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁が始まると、その一行の定宿になりました」
といった内容の、中央区境域委員会の説明板があります。

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 海外との交易は古くから制限されていましたが、交易相手からイギリスを追放、続いてイスパニア(スペイン)を追放。さらに厳しくなったのが1633年以降です。1636年には、長崎に出島が設けられ、貿易相手のポルトガル人がそこに押し込めら、貿易相手は中国とポルトガル、そして、1602年に平戸に設けられたオランダ商館(オランダ東インド会社の、日本における出先機関)を通じたオランダだけになり、さらにはポルトガルを追放し(1639年)、空き地になった出島に、平戸のオランダ商館を移し(1641年)、結果、鎖国体制が完成したわけです。
 ちなみに、貿易相手を絞った(貿易相手から外し追放した)理由の1つはキリスト教布教問題ですが、背景には、海外勢力(イエズス会)による領土支配と欧米キリスト教信者による人種差別(活発な奴隷売買、日本人も対象の人種蔑視)があったといわれています。
 鎖国後のオランダ商館との貿易は長崎出島で行われ、オランダ人は出島から出ることを禁じられました。
 ただ、オランダ商館長(カピタン)は年に1度、参府し、将軍に謁見して献上物を贈るとともに外国の情報を提供することを義務づけられました。最初のうち、参府は年1回の行事でしたが、経費がかかることを理由に申し入れをし、江戸中期からは4~5年に1回になります。
 その参府の際の定宿となったのが長崎屋です。
 将軍謁見と言いますが、将軍だけでなく、海外事情、蘭学や外国の科学技術、医療(蘭方医)などを知り、学ぶため、藩主、医者や蘭学者らも訪問しており、江戸における外国文化交流の場になっていました。また、外国人珍しさから、ひと目見ようと、たくさんの江戸庶民が長崎屋辺りに集まりました。その様子を、葛飾北斎が描いています。

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 オランダ商館長に随行し、長崎屋に泊まったりした有名人というと、シーボルトです。シーボルトはドイツ人なのですが、オランダ人と偽称していたことになります。
 ついでに言うと、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1793年、フランスに占領され滅亡しています。22年後の1815年にオランダ(ネーデルラント王国)が建国されるのですが、その間、日本の貿易相手は? どうやら長崎の出島に出入りしていたのは、東インド会社と傭船契約を結んでいたアメリカの船だったようです。(wikipedia「オランダ商館」参照)

 

石町の鐘が移されている十思公園については次回に。

おどろきハウス・前田