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江戸で最初の「時の鐘」

カテゴリー:建物の手帳 

◆石町は江戸を寝せたり起こしたり

   (川柳)

 

 江戸で最初の時の鐘は、石町に置かれました。

※石町(こくちょう):米穀やその他の穀物を売る者が多く居住していたことから、石町と呼称。後に、新石町ができたことから、本石町(ほんごくちょう)と改称。

※時の鐘:時刻を知らせるために設けられた制度で、時報代わりに使われた鐘。

 

 江戸時代、はじめは江戸城内で太鼓を鳴らして時刻を知らせていたのですが、太鼓では、その音が遠くまで届きません。そこで、寛永3年(1626年)、幕府は日本橋石町3丁目に200坪の土地を与えて、鐘楼堂を建てさせ、1日12回、鐘を撞かせました(時報を打たせました)。これが「時の鐘」のはじまりです。

 時の鐘は、のち三度の火災に遭い、損傷で鳴りも悪くなり、宝永8年(1711年。六代将軍家宣の時代)に、新たに鋳造されました。享保10年(1725年。八代吉宗の時代)には、本石町三丁目北側の新道の、間口12間、奥行19間3尺の土地に鐘楼堂が建てられ、これが幕末頃まで使われました。


 石町の鐘の撞き役は、辻源七(代々、辻源七を襲名)で、鐘の音が聞こえる範囲の町から、「時銭」(鐘楼銭)として、月に永楽銭1文ずつ、当鐚(びた)では4文ずつを商業地区の大町、小町、横町、計410か町から集め、鐘撞を維持・運営していたと、辻源七が書き残しています。


 切絵図を見ると、「石町 時ノ鐘」の位置は現・日本橋本町四丁目二番地辺りです。

 行ってみると、室町三丁目交差点(中央通りと江戸通りとの交差点)の一筋北、江戸通りに平行して走っている細い通りが「鐘撞堂新道」(切絵図にカ子ツキタウシンミチ)のようです。

 

※鐘撞堂新道は通称で、本来は、本石町新道というようです。

 

 「時の鐘(鐘撞堂)」は跡形もありませんが、中央通りの「みなと銀行」室町支店のそば、鐘撞の道(旧・鐘撞道新道?)入口付近に由来を記した中央区の説明板が立っています。また、道の路面に「時の鐘通り」のプレートが埋め込まれ、街灯の柱にはプレートが貼られています。

 

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 この鐘楼下では、俳人の蕪村が「夜半亭」と名付けて句会を催していて、深川の芭蕉庵とともに有名、という説明板もあります。

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◆石町の鐘はオランダまで聞こえ

  (川柳--『俳風柳多留』)

 

 鐘撞堂新道と江戸通りとの間には、薬種問屋の「長崎屋」がありました。

 薬種問屋の「長崎屋」となると、畠中恵さんの『しゃばけ』シリーズを思い出させてくれますね。

 でも、本物(?)は、薬種問屋であるだけでなく、オランダ商館長の江戸参府の定宿でした。

 江戸の人々だけでなく、阿蘭陀の人も寝せたり起こしたりしたという川柳です。

 

◆時の鐘の行方

 元の所にはありませんが、「石町の時の鐘」は現存しています。
 鐘撞堂新道(現・時の鐘通り)を東に歩いて行くと(途中で昭和通りを横断します)、5~6分(約500メートル)の十思公園=(日本橋小伝馬町5-2。日比谷線小伝馬町下車徒歩1分)に作られた、立派な鐘楼の上に置かれ、東京都の有形文化財として大切に保存されています。

 この鐘は、幕末から地元の松沢家が保存していたそうで、昭和5年、十思公園の開園に合わせ、石町宝永時鐘鐘楼建設会が公園にコンクリート製の鐘楼を建て、いまに至っています。

 昭和30年頃までは、地元の方が、朝の6時とお昼12時に鐘を撞いていたそうですが、現在は、終戦記念日の8月15日に、空襲で亡くなった方々の冥福を祈って撞かれているそうです。

 

 江戸が広がっていくにつれ、時の鐘は上野の寛永寺などにも置かれるようになります。多い時で、同時に官許でない、非公認の鐘も含め、10数カ所の「時の鐘」がありました。今後、それらについて記していきますが、今回の「石町の時の鐘」に関連するので、次回は、「薬種問屋の長崎屋」と「十思公園」について--おどろきハウス・前田